「聲の形」は感動ポルノ!という意見に対する反論



聲の形は感動ポルノ!という感想もちらほら入ってきて、



こんな気持になったのでその理由を書いてみようと思います。
あくまでわたしはこう考えていますというものなので、論破はできなくてもいいや。

理由1:山田監督は理詰めで物語を考えるタイプ。


過去作を含め、理詰めで話を作る山田監督がこの映画でご都合主義に走ったとは考え辛いです。

では何故ご都合主義と映るのか。
答えは、その行動に至る心理描写を分かりやすく言ってくれないから。

ただ漫然と見ていると、突然キャラクターが行動を初めて、「え、なんで?」と思うところが出てきます。

例えば、自分をいじめていた相手に「スキ」というところとか。その理由が語られないから、ご都合主義と捉えられるんだろうなと思いました。

でも、その「え、なんで?」を考えるとこの映画はめちゃくちゃ面白くなるんだよ!

心理描写を分かりやすく描いていないから、理解するためにキャラクターの振る舞いや、過去の出来事、性格、演出から推測する必要があります。

昔の日本映画とかでも、登場人物の気持ちを物や背景に例えて、一瞬だけチラッと画面に写したりしていて、肝心なことは言葉に出さない。それと似たような作りになってる気がします。

全ての行動に理由がある前提で、キャラクターの言動や行動を考えてみてください。

このキャラクターは過去にこんなことがあって、現在はこんな状態で、こんな性格だと、いろいろな方向に考えを巡らせていると、だからこう行動したのか!と、点と点が一つの線で結ばれる快感があります。

また、全てを語らないということは、この映画の解釈も人それぞれになるのも理解できます。
なのでこれから書くことが全て正しいんだ!ということではなく、わたしの眼鏡でみた聲の形の感想であります。

難しい映画だよという意味ではなくて、観れば観るほど面白くなるどっぷり浸かれば浸かるほど面白いスルメみたいな映画です。

なので、良く分からなかったという人は、もう一回映画見に言って見ると良いかも。

もう一度観返した時に「あぁ、そういうことか!」と納得できるシーンがあるかもしれません。

セリフや言葉に出ない動き、背景にヒントが沢山ちりばめられています。
そのヒントをもとに何故そんなことを言ったのか、何故そんな行動をとったのか考えながら観てみて下さい。

過去作のたまこラブストーリも見るたびに新しい発見があるから何回も繰り返し見ていても飽きません。

理由2:いじめっ子が許されるという内容が都合良すぎ!という意見に対して。


そもそもこの作品は許す許されるという構造ではないのではないか? と思います。
以下にその理由を書きます。

いじめっ子時代の将也は自分が硝子に対してどれだけ酷いことをしてきたか気づいていません。
自分がイジメられて初めて、自分が犯した罪の重さを思い知らされたわけです。
「自分がやってきたことはそっくりそのまま自分に跳ね返ってくる」と言っていますよね。

だから自分は硝子に対して償いをしなければならないと考えるようになります。
これは、普通の思考の持ち主なら、当然そういう行動をとると思います。

で、いざ将也は硝子に対して償いをしようとするのですが、ここで硝子の性格を考えてみましょう。
批判的意見では「自分をいじめていた相手を許し、しかも好きになっちゃう都合よすぎぃ!」と言われていましたが、じゃあなんで硝子は「都合のいい」反応をしたのでしょうか。

考えてみましょう。



硝子はどんなに酷いことをされても悲しそうに愛想笑いを浮かべてごめんなさいと言う人間です。
あの悲しい笑顔を見て心が辛くなった人も多いのではないでしょうか。

「わたしはわたしが嫌いです」「周囲の人間を不幸にしてしまう」と語る人間が、自分がイジメられたことに対して、相手だけが悪いと考えるかな?と考えると疑問に思いませんか?

自分の耳が聞こえないからイジメられる。自分が悪いのだと、自分で自分を追い込んでいると考える方が自然な気がします。

観ていてあんなに辛い気持ちになるったのは、彼女に憎むべき敵がおらず、その感情も全てひっくるめて、痛みを全て受け入れてしまう硝子の痛々しい姿を見せつけられたからです。

こういう人は実際の社会でもいますね。仕事で鬱になる人とかは、自分がダメだから成果が上がらないと考えてたりするのと同じではないでしょうか。

と言うわけで、そもそも硝子はイジメの原因が自分にある思っているから、将也を責めるような被害者意識はないと考えます。

この場合、加害者と被害者という関係ではなく、二人とも加害者であり被害者でもある(しかも互いに自分が被害者という意識はない)という構図になるので、タチが悪いです。
単純に、ごめんね→いいよ!という話ではなくなってしまったのです。

許す許さない以前に、そもそも硝子の性格上、将也を責めるつもりがなかったので、将也の謝罪をすんなり受け入れたのだと思います。

それが結果的に「都合が良い」と見えたのではないでしょうか?

しかし、だからこそ問題の根っこが深いのです。
単に許されてハッピーエンドではなく、硝子と将也の「生きていてごめんなさい」という問題は何一つ解決していないのです。
もっと深い問題が、謝罪し許されるという表面的にはポジティブな結果をもたらしていたに過ぎないと思います。

また、自分の中に「罪悪感」が残り続けている限り、自分の中で納得できるまで向かい合わなくてはなりません。相手は許してくれたけど、自分は納得してない。


理由3:自分をいじめていた相手に惚れるか?という意見について。


○ノートを拾いに川に飛び込んだ理由。



小学校時代の硝子にとって、ノートは他者と通じるための重要な道具でした。

このノートを捨てたことで、人や世界との隔絶をします。

硝子にとってノートは「人との関わり」の象徴なので、捨てたはずのノートが川に落ちた時、躊躇なく川に飛び込んだのだと思います。

また、失ってしまった「人との関わり」を将也が再び届けにきたことで物語が始まることも意味しているように感じます。

ノートを返す行為には、これから人との関係を結び直すぞ!という意味があるのではないでしょうか。

将也も硝子も人との関わり方が分からないので、それを模索する物語が始まるわけです。

○将也に惚れた理由



前述した通り、硝子には将也を責めるという発想がなく、被害者意識がありません

そんな彼女の前に数年ぶりに同級生が「ノート」を届けにきたのです。

それは彼女にはどう映るでしょうか。

なくしたと思っていた「とても大切なもの」を再び運んできてくれた人と映るのではないでしょうか。
それだけでなく、自分のせいで周りからいじめられる事になったのに、それでも自分のために色々と良くしてくれる超良い人と映っているのかもしれません。

硝子にとっての将也のイメージの方が都合が良い気がしてきました。

将也が償いの気持ちでやっていることも硝子にとっては別の見え方になっているので、そういう事から将也を好きになったのではないかと考えます。

そして、その前のシーンで植野と将也が何かを話していてもしかしたら将也が取られてしまう!と考え告白したのではないでしょうか。

理由4:感動ポルノの定義


感動ポルノの定義を「圧倒的有利な立場の人間が、下の者を見て頑張れ頑張れいうモノ」だとすれば、将也は硝子への罪悪感バリバリで、将也からみた立場は硝子が圧倒的に上にいます。

そんな自分が耳の聞こえない硝子を応援しようなんておこがましい気持ちは微塵もないと思います。

償いをすることでその空気に浸って気持ちよくなりたいということについても、そもそも硝子は将也を恨んでいないので浸りようがないのです。

というか、この映画は障害のある人を障害があるからかわいそうな思いをしているような描きかたをしていないし、一人の人間としての悩みを描いています。
①自分の弱さや精神的なコンプレックスと向き合い、
②人との関わり方を模索し、
③行き場のない罪悪感と向き合い、
④その先の関係を築こうとする
映画で、人間の成長を描いた、希望に満ちた作品だと思うのです。

また、将也や植野は硝子を障害者ではなく、一人の人間として向き合っていて、対等な立場として扱っています。
わたしは彼らを尊敬しました。自分にそれができるかな?と考えさせられました。ちゃんと障害のある人との関わりかたも提示しています。

頭空っぽで「あ゛ぁ゛~可哀想なんじゃぁ~☆頑張れ☆頑張れ☆」というだけの薄い作品ではない!

否!

断じて否!

わたしはそう思います。



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