だらだらする大義名文を考える。
本質的にダメ人間なので、可能な限りなにもしたくないんです。
一日中ぼーっとしてたい。
世間では無為に時間を過ごすことは悪だと言います。
うるせーよ!
そこで、だらだらすることを正当化するために、屁理屈を考えてみようと思うので興味のある人は付き合ってほしい。
有意義なことをしているのに辛い。
学生時代は日がな一日ぼーっとしていられたけど、社会人になって遊ぶ時間がめっきり短くなってしった。せめて土日は遊ぶぞ!と常にスケジュール帳を一杯にしている。こんな人は多いのではないでしょうか。
飲み会。話題の場所に遊びに行く。欲しいものを買い漁る。時にはDIYにも挑戦。スポーツ。勉強や読書。エトセトラエトセトラ
なんか疲れるなーと思った人はダラダリストの才覚をお持ちです。
私はこういうの続けてるとすごく疲れてしまいます。
自分磨きとか、背伸びして充実した日々を送ろうとするとむしろ空しさだけが残る気がする。
だらだらは解脱に至る行為である!
仏陀は全ての苦しみは欲や執着から生まれると言いました。
もっとお金持ちになりたい。もっと充実した人生を送りたい。もっと成長したい。
こういう類いのものには終着点がなく、永遠に終わらない持久走をしているようなものです。
子供の頃から持久走とか大嫌いでした。疲れるだけだろアレ。
わずかな休日を必死に楽しもうとすることも「執着」と考えると、休日の終わりに「もっと時間があれば」「あれもしたい。これもしたい」もっとしたいもっともっとしたい。と果てない欲望に飲まれ、欲望のトラックを延々と走り続けるからどんどん苦しくなっていくのです。
だから自分は仏陀にならい、執着をやめているのだ。
必死に土日をエンジョイすることは執着や欲望を産むから、自分はあえて「ダラダラしている」のだ。と考えましょう。
だらだらすることは苦しみから解脱するための行動なのだと考えると、だらしなく椅子に腰掛け、昼間からビールを煽りながら、ぼけーっと流れる雲を眺めている姿が、悟りを開いて深淵なる眼で世界を見つめているような神聖なものに思えてくるではないですか。
ダラダリストの皆さん。ダラダラすることは怠惰ではありません。
ダラダラは善であり禅なのです。
胸を張ってダラダラしようではありませんか!
理論武装のための参考記事
ぼーっとすることで逆に集中力がつく。集中力は意識の緩急が大切。
副交換神経を働かせて心のバランスを取れる
ざっくりまとめると、ボーッとしてるとアイデアが湧いてきたり、脳の一部が活性化する。
しかも、副交感神経が活発になるのでリラックス出来る。
最強かよ!
さぁ、胸を張ってダラダラしようじゃありませんか